「あの頃の僕はまだ未熟で、
不動産の取引がこんなにもシビレルだなんて、
夢にも思っていなかったよ。」
日付が変わるころに帰宅した男は、
疲れた様子で身重の妻に語りかけた。
待望の第一子が来月誕生予定なのだ。
「そう。私も宅建の資格を持っているけど
そんなことは全然知らなかったな。
それより、ご飯は食べる?」
妻はあまり興味が無いようだが、
男にとってそんなことは重要ではなかった。
「悪くない。でも少なめでいいよ。
明日胃もたれするわけにはいかないからね。」
「急きょ決まった、更地の一括決済」
不動産取引の法務を熟知した男にとって
これが何を意味するかは、
太陽が東から昇り西に沈むのと同じくらい明らかだった。
「キャプテン、この取引はもしかして…」
資料を確認した社員が男に語りかける。
売買予定代金は、2億1000万円だという。
23区西部の好立地、もう少し高く取引されても
良いのではないかと思わせる広い土地だ。
「難しい質問だ。あるいはそうかもしれないね。」
男は静かに同意した。
「とにかく、僕らにできることは
警戒を怠らないことだけさ。まるでミーアキャットのようにね。」
アフリカの生物に詳しくない社員は
わかったふりをしながら笑い、資料の作成を開始した。
「明日の取引は、銀座の●●法律事務所で行います。
時間は13時からですので、よろしくお願いします。
少し早めに集合して、打合せをしましょう。」
顧客からの簡潔なメールを確認した男は、
戸惑いを隠せなかった。
「弁護士事務所だと…?」
社員全員が帰宅し一人になったオフィスで、
男はつぶやいた。
食事帰りの会社員たちの笑い声が
どこからか聞こえてくる。
「ともかく」
男は自分に言い聞かせるように声を張り上げた。
「世の中にはいいやつも悪いやつもいる。
それは肩書では解らないものさ。」
男の中のミーアキャットは、警戒を緩めるどころか
さらに感覚が研ぎ澄まされていった。
つづく
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